イリ河畔の会戦 ~敗北~
「右翼、左翼共に被害多数! 援軍を打診してきています!」
兵舎の中では返り血とドロに汚れた兵士が赤い絨毯にひれ伏していた。彼の乗ってきた馬は兵舎に行き着く前で倒れ、今まさに『役目』を終えようとしている。それをまるでドブネズミのように見ていたひとりの若い人間がいた。それがブルガール1世の長男、テオドロス王子だった。
「…私の馬をここへ」
テオドロスは使者を無視するように兵舎から出て行った。
「ど、どうか…!」
それでも食い下がる使者はテオドロスの足にしがみついた。その束縛は一蹴りされてあっという間に解消されるのだが…
「…失せろ下郎」
テオドロスは、はき捨てるように言い、自らの黒馬に乗った。黒い鎧に身を包んだ若い男が黒馬に乗った姿はまるで、悪魔のように見える。
まだ朝霧は濃く戦況は全く不明だった。特に突撃していった中央軍はなんの使者も送ってはいない。勝っているのか、負けているのか、それすらもわからなかった。それと不思議なのは、右翼、左翼ともサイによる打撃を受けたあと、なんの攻撃も受けていないということだった。敵、2万の歩兵部隊の行動が不明だったのである。
黒馬を馳せるテオドロスはというと腹心の年老いた副官と共に丘に上った。霧が晴れれば、戦場がすべて見渡せる場所だ。
「とにかく、この霧が邪魔でなにもできないはず。親父め、無謀なことを…」
するとそのとき、丘の下から一匹の馬が駆け上がってきた。相当無理をさせたらしく、馬の目は血走っていた。
「何事だ!」老副官が叫んだ。
「サルマノフ城が陥落! 我々に退路はありません!」
使者は馬から下りることもなく叫びをあげた。
王子の顔が変わった。悪魔の顔はもうそこにはなかった。ただ恐怖にかられる、弱い人間の顔がそこにはあった。しばらく唖然としていた老副官が吐き捨てた。
「なんだと!…そうか、やつらの狙いは城だったのか…しかし、なんで位置がわかったのだ。やつらはまだこの土地には慣れているはずが…」
この報告を待ってのことか、急に霧が晴れだした。もう日は高くなり始めていたのだ。
「…おお!なんてことだ!」老副官は天を仰いだ。
初めて明らかになった戦況。テオドロスは圧倒的に自軍の不利であることを悟った。
ミーラン王国が誇る鋼鉄騎士団。彼らはパミール族の歩兵に丸め込まれ、完全に包囲されていた。後に突撃したはずのミーラン王国の歩兵は相手のサイに散り散りにされ、まとまって攻撃をすることなく、弓兵の餌食となっていった。
「…父は死んだ」
今まで黙っていたテオドロスが口を開いた。その顔は再び悪魔に犯されていた。
「両翼の軍に伝えろ。サルマノフ城は落ち、わが父、王も死んだ。我らが退路を開くからあとを続け、と」
劣勢は明らかだった。しかし、敵は少なく見ても1万、鋼鉄騎士団を囲んでいる歩兵たちも消して厚い壁とはなっていない。年老いた副官はこの状況をよくわかっていた。しかし、直接王子に報告する気はなかった。この悪魔になった王子に何を言っても聞かないことは自分が一番よく知っていることだったからだ。
「撤退だ。パカル、バートルへ帰るぞ」
王子は感情を込めず、そっけなくパカルと呼ばれた年老いた副官に言うのであった。
一方、鋼鉄騎士団を率いるブルガール1世は思い通りに動かない自軍に苛立ちはじめていた。
「くそっ!せっかく霧が晴れたのだ!突撃しろ!やつらの壁は4人しかおらぬのだぞ!」
次の瞬間、天は霧の変わりに矢の雨に覆われた。
「王!!お下がりください!」
…ッシュズ!!
「ロマノフ将軍!立て!まだ戦は終わっておらぬ…」
王の周りはひとり、また一人と馬上から姿を消していった。サマーノフ司教はというとすでにあの霧の中で行方不明となっていた。パミール族の輪はしだいに狭くなってゆく。それに伴って矢の数は減ったが、兵士の数は巣から飛び出す蟻のように増えていった。
「ぬおおおおおお!!」
ブルガールは独り、敵の歩兵の真っ只中に突っ込んでいった。手前にいた歩兵を一人、返す刀で一人殺った。そして、更に奥へ押し進もうとした時。王の愛馬は声にならない悲鳴を上げた。パミール族の兵士が斧のような刃を持つマチュテで馬の足を叩き斬ったのである。倒れこむ愛馬に乗ったまま、ミーラン国王ブルガール1世はパミール族の喧騒の中に姿を消した。
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