イリ河畔の会戦 ~開戦~
イリ河の東側に布陣したミーラン王国軍からは未だ敵の姿を見ることができなかった。朝霧は晴れてきたものの、じれったいほどボンヤリと彼らの視界をさえぎっていた。太陽はまだ高くないのだ。しかし、ミーラン王国軍は焦っていた。というのも、先ほどから自軍でない太鼓の音があたりにこだましたいたからだ。
…ドンド ドンド ドントコトット ドンド ドンド ドントコトット……
この音ではもうさほど遠くない、市民兵の一人がそう感じた。隣に槍を構えているのは、近所の肉屋の主人だとわかっていた。だが、もうすでに歯がガタガタなっているのがわかった。太鼓の音と見事な不協和音を響かせているな、音楽学校に通う隣の学生がのんきに考えていた。その時、
「太鼓がやんだ…。そろそろですな。それにしても、あの斥候のお陰で早い段階で陣構えができましたな。」
ロマノス将軍は不敵な笑みを浮かべていた。
「確かに、これで手抜かりなく準備ができましたからな。」
サマーノフ司教は自慢のひげをなでながら自慢そうに言った。
…………ッタッタッタッタッタッタッタ
「王よ、和平交渉の使者が戻ってきたようでございます。」近衛兵が進言した。
「うむ……!!」
「こ、これは…」サマーノフ司教が黙祷を捧げながら十字を切った。
帰ってきた馬の上には使者の体はあったが、首だけがそこにはなかった。
「これがやつらの答えのようですな…」
驚く様子もなくロマノス将軍が言った。
「おのれ、余が慈悲をくれてやろうと思ったものを…」
ブルガール1世は苦虫を噛み締めたような顔をした。その横でサマーノフ司教が彼に耳打ちを入れ、
「馬が真っ直ぐ進んできたのならば、敵の本陣は真正面にあるかと存じます」
「余にどうしろと?」
「まだ霧は晴れていません。ここで奇襲をかければ、敵は散り散りになって退散するでしょう」
このとき、王の顔が普段の温厚な顔から、鬼のような夜叉へと変貌をとげた。その顔は血の気はなく、ただ怒りと憎しみに満ちているようであった。
「将軍、ここは余の武運の見せ所ではないか」
「王のお気の召すままに…」将軍には耳打ちが筒抜けだったようだ。
ブルガール1世は腰元から剣を抜いた。サーベルと呼ばれる騎兵用の真っ直ぐな剣だ。
「角笛を鳴らせ! 太鼓を響かせろ! 皆のもの、余に続け!」
全軍突撃の合図だ。市民兵も騎士団も、奴隷兵も皆、異常なまでの叫び声をあげて白い世界に身を投じた。しかしこの時、騎士の速さに歩兵がついていけていないことに誰も気がつかなかった。
一方その頃、ミーラン王国軍の左翼は完全な出遅れを食らっていた。常にかかる白い朝霧に視界をさえぎられ、突撃を悩んだ。ゲルの中では口論が始まっていた。
「アルプ殿!早く突撃命令をされよ!」中央軍の使者がさかんとせかしていた。
「ん~…相手の様子がまだわからない内に攻撃はできん。ただ兵力を浪費するだけじゃ」
アルプは目を閉じたまま、自分のひげを丸めるようにいじっていた。突然、表に立っていた兵士が血相を変えて飛び込んだ。
「右翼より早馬! 奇襲されています!」
「なに!?」 アルプは即座に立ち上がり、ゲルの外へ出た。使者はただ唖然としたまま、ゲルの中にいた。
すると、今度は前方にいた見張り兵が走ってきた。
「敵です! ものすごい地響きを立てて突っ込んできます!」
言い終わるが早いか、言うが早いか、白い朝霧の中に黒いシルエットが浮かび上がった。
「な、なんだあの獣は…」 アルプはもう頭が真っ白になった。
突然現れた、灰色の獣。鼻の上にそそり立つ角にはすでに血がべっとりとついていた。獣の上には敵兵を逃がしまいと構える弓兵の姿。
…ッシュン!!
アルプの耳飾を矢がかすめた。それで我に返ったアルプはすぐさま馬に乗り、叫ぶ。
「乱れるな!! 馬に乗れ! あの獣の正面には立つな!」
言い終わるとすぐさま馬を馳せ、今自分を狙った敵兵を追いかけた。さすがに族長の良馬だけあり、すぐに追いついた。「ッフン!」と気合を入れて鐙を踏みしめると、立ち上がり、弓を構えた。
ギリリリリリ……
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