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2005年9月22日 (木)

チャフチャカン湖

 春が駆け抜けた緑の平原から望むクンルン山脈―ミーラン人は南部高地と呼ぶらしいが―は未だ雪の衣に包まれ、そこから流れ出す白く清らかなイリ河は<大いなる水>チャフチャカン湖へ注いでいた。湖に寄り添うように群がる家々はチャカン村と呼ばれ、ひとたび掘り返せば塩が吹き出る大地に唯一人が住む場所でもあった。村の人々は葦を組んだだけの粗末な家に住み、草だけは豊かに育つこの平原に馬や羊、山羊などを放していた。夏の間湖の北で過ごす彼らは、冬になると卵型の湖をぐるりと半周して河口の湿地帯まで南下する。それは厳しい冬ではすべてが凍り付いてしまい、湖に大きく口を開けるイリ河に緑の名残りを残すのみだったからだ。それに穏やかだが、確実に流れるイリ河には塩辛いチャフチャカン湖と違い、多くの淡水魚が住んでいる。チャカン村の人々は時折、葦舟を浮かべ、泥臭いが大事な食料を取って生活の足しにしていた。

 このチャカン村へやってくるような物好き人間は滅多にいないが、厳しい冬が終わり、短い春の祭りが行われると、窓から入る春風のように南のバートルから多くの商人がやってくる。彼らの大半は毛皮商で、それに金物商、織物商が混じっていた。お目当ては冬眠明けで眠そうに穴倉から出てくる野うさぎやテン―これが実に高価なのだが―の毛皮、よく肥えた羊の毛であった。その代金として、商人たちはナイフや鍋などの鉄製品を置いてゆく。チャカン村の人々にはそれが不思議でしょうがなかった。平原に行けばいくらでも取れる―むしろ邪魔にさえもなる―ものをなかなか壊れない、いい物と交換してくれるのだろう、と。それはバートルの抜け目ない商人たちも同じで、どうして安っぽい鍋と家が一軒建てられるほど高いテンの毛皮と交換してくれるのかが、全くわからなかった。ただ、両者はお互いにあざけ笑っているものの、決して口には出さずにいた。

 エーデルワイスの花びらがイリ河の流れにその身を寄せる頃、黒くしなやかな髪を肩までたらした少女が青と緑の空間を―時に所々ぬかるんだ土を飛び越しながら―歩いていた。白く肉付きの良い腕には大事そうに鍋と真鍮の器が抱えられて、草原の民なら誰でも知っている「クンルン賛歌」を楽しそうに口ずさんでいた。簡単な言葉の羅列はとても詩人が作ったとはいえないものだが、単調なリズムで歌いやすく、気分を高揚させるにはいい曲だった。ごわごわした白いフェルトのシャツをはらまし、赤地のスカートが揺れる様は一輪のエーデルワイスを思わせる。岸辺に到着すると、澄んだ水に吹き溜まりのように溜まった花びらを払い、洗い物を始めた。だいぶ使い込んだらしく、ボコボコに痛んだ鍋を少女はまるで赤ん坊を洗うように洗った。

 「クンルン賛歌」が終盤に差し掛かったとき、岸辺に一枚の痛んだエーデルワイスが流れ込んできた。だが、痛んだ部分は黄ばんでいるばかりでなく、黒光りした深紅の縁取りがなされていた。その時、静かに流れていた歌が――止まった。やがて、嗚咽のような声が辺りに響きわるが、それは少女が恐怖のあまりに出した精一杯の叫びだった。

 白く清らかなイリ河。湖と河口は未だクンルン山脈の雪のようだったが、やがてくすんだ白になり、ついには朱色となってその源の方向へ続いていた。黒ずんだ朱色に浮かぶエーデルワイスの白い花びらがゆっくりと滑ったイリ河に沈んでいった。

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2005年9月 2日 (金)

街道にて

陰りはじめる斜陽の中を、軍隊は行軍していた。

行軍にしては彼らの顔はしぼみ、頭がたれ、どちらかと言えば受験発表があった赤門の前といったところだろうか。槍を杖にするもの、仲間の肩を借りるもの、様々な落胆がある。

ところどころで黒い噴煙が昇っている。酸っぱい臭いと、むせ返るような死臭からすると、おそらく死体を焼いているのだろう。火の周りでは皆一様に座り込み、談笑をすることなく、ただ黙々と火を眺めていた。

その中でひとり、鼻歌を歌う男がいた。彼は音楽学校に通う学生だった。今は兵士となり、首には二つの袋が掛けてある。一つは空。もうひとつには近所の肉屋主人の歯が入っていた。そして、今目の前で焼いているのは一人の男性だった。近所に住んでいたということはわかった。だが、名前は知らない。名無しの市民Aだった。

街道は一直線に首都バートルへ続いている。勢いを失った太陽は東の山脈の万年雪を黄金に輝かせ、その山麓はただオレンジ色に染め上げられていった。そんな中、その黒い煙だけは何ものにも染められず、穢れない純粋な死の灰を吐き続けていた。

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2005年9月 1日 (木)

釈放 ― 敗走

幾重にも重なる死体の脇を蟻のように這いずり回る男たち。

彼らは金になる鎧や剣、お守りをまだ暖かい屍から頂戴していた。

取りやすいように腕を裂く者、首をはねる者―。

イリ河はその白く穢れない流れを犯され、今ではもう血の河と化していた。

「余をどうするつもりだ…」

河畔の大きな丘には豪華な鎧、剣、髪飾りはすべて取り払われ、まさに乞食のような格好をした一人の人間がいた。彼こそ、100年の歴史を誇るミーラン王国国王、ブルガール1世その人である。

僧侶のように坊主頭をした男が高座の上で座禅を組んでいる老人になにやらささやいている。すると、突然、

「duanduam!mxuanjahdue!」

呪文のように放たれたその言葉は国王には理解不能だった。しかし、この言葉を発した人物がパミール族の長らしい。皆この人物に対してだけ、五体倒地をするのだ。

「フン、牛のような声を出しおって…」王はつぶやいた。

ッシャ!

ねずみ色の男の腰から放たれるマチュテの幅広な刃の怪しい光。

――キラレル

直感的に王は感じた。…だが、

…ブチブチブチ

なんと、ねずみ色の男は王を拘束していた縄を切ってしまった。あまりにも予想に反した行動だったため、王は唖然としてねずみ色の男を見つめた。すると、

「…どうぞ、こちらへ。ミーラン王よ」

パミール族の長が言った。王は言われるがまま、長が進める高座に腰掛けた。そこにはクッションまで置いてあり、王が充分にくつろげるよう配慮されている。

「しかし、いや、どうして…」

動揺を隠し切れないミーラン王ブルガール1世。そんなブルガール1世に長は静かにささやいた。

「王は王を殺しません」

そういったあと、長はにかっと笑った。しかし、ブルガール1世にとってその笑みほど恐い者はなかった。

「な、なにが望みだ!」 孤独なミーラン王は立ち上がった。

長はなおも笑みを絶やさないずに、

「和平」 と、だけ言った。これに孤独王は声を荒げた。

「余は散々貴様に使者を送った!『和平』のな!今更『和平』?っは!笑わせてくれる!」

そういって後ろを振り向いた。そこでブルガール1世は一生忘れられない光景を見る。

パミール族、全員がこちらを睨んでいた。緑色の草原に立つ褐色の人種が獣のような目つきで睨んでいた。更に不気味なことに手には赤黒く光るマチュテを握っていた。

ブルガール1世は再びゆっくりと振り返った。高座の笑顔はまだ絶えていない。

「サルマノフ城、および周辺の砦、領地を我らにお預けなさらぬか?」

まだ、絶えない。何度も言うが、今のブルガール1世にはあのマチュテの刃よりもこの笑顔の方がずっと恐ろしいものだった。

「…………和平は成立だ。長よ」

長の笑顔が消えた。そして、高座を立ち上がった。

「xsnuo!amdieoi!xnsuanudieu!」 (民よ!住む場所だ!ここが住む場所だ!)

その瞬間、パミール族から大歓声が沸きあがった。皆、それぞれのマチュテを天高く掲げ、

「アラル!!アラル!!」 (万歳!!万歳!!)

と、叫んだ。

高座に再び腰を下ろしたパミール族の長は横にいた坊主頭の男に耳打ちした。すると、今度は乱暴にブルガール1世を高座から引き落とし、戦場になった方とは逆の方に丘を下っていった。そこにはいくつもの荷台が置かれ、サイがたむろしていた。

「今度はどうするつもりだ!」 王は叫んだ。

「こっから出て行ってもらう!」 坊主頭が答えた。

荷台を警護のパミール族の兵が気がつき、2人が駆け寄ってきた。

「xisoaunxisanuildsna」 (こいつの頭と体を押さえつけろ)

王は屈強な男子に羽交い絞めにされた。

「な、なにをする!殺す気だな!?」 孤独なミーラン王は必死にもがく。

坊主頭はどこから持ってきたのか、特大の針を手にしていた。

「dbui!albduialnb!」 (こら!動くな!)

兵士の叫びが聞いたのか、王はピタリと動きを止めた。それを待っていましたとばかりに、特大の針が王の耳を貫いた。

「ああああああああああああ!!!!」 孤独なミーラン王は悶絶する。

坊主頭は穴が開くと、すかさず石の輪を耳に通し、ピアスをさせた。奴隷の印がブルガール1世に刻まれる。

「慣習だ」 坊主頭は言い放った。

倒れこもうとするミーラン王を抱きかかえ、更に荷台の奥へ進んだ。すると、そこには一匹の馬がいた。

「乗れ」

ミーラン王はすがるように馬に乗り込み、走らせた。耳の痛みなど忘れ、ただ駆けた。

落ち行く太陽もブルガール1世の目には入らない。

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